武士道の「勇」は勇ましいだけじゃないよ

マインド
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孔子は『論語』で

「義を見てせざるは勇なきなり」

と説いています。

 

正しいことを理解することが「義」でしたが
それを行動に移すのが「勇」です。

 

さらにかみ砕くと
「勇」とは

「正しいことをする」

と言えるかもしれません。

 

勇敢なだけじゃ「勇」ではない

正しいと分かっていても
それを実行しないのは勇気がないからです。

 

つまり「義」あっての「勇」であり
「義」があっても「勇」がなくては意味がないのです。

 

義のない行動はただの蛮勇と言えます。
向こう見ずですね。

 

死に値しないもののために死ぬことは

「犬死」

と言われている通りです。

 

また同時に「勇」は

何事にも動じない精神性」

も表しています。

 

担を練るという言葉がありますね?
日頃から自分の肝っ玉を太く鍛錬しておく必要があります。

 

いざという時に備え
武士は体を鍛えていました。

 

そして修行の結果
戦時でさえも動じない冷静さを身につけました。

 

武士道って死ぬことじゃないの?

さてこう説明していると
多くの方が

あなた
「武士道は死ぬことと見つけたり」じゃなかった?

という有名な言葉が浮かんで
ちょっと話が違うんじゃと感じるかもしれませんね。

 

よく混同されますが

「武士道は死ぬことと見つけたり」

は『葉隠』における記述なので
実は武士道すべてに共通する概念ではないんですよ。

 

太田道灌は「勇」の人だった

二十五歳の若さで江戸城を築城。
「江戸」の原型を造り出します。

「道灌かがり」と呼ばれる
独自の方式を編み出し後に伝わる名城とうたわれました。

 

そんな江戸城の築城者であった
太田道灌が槍で刺されたとき
道灌が歌の達人であることを知っていた刺客は
道灌を突き次のような上の句を詠みました。

刺客
かかる時 さこそ生命の 惜しからめ

ざっくり訳すと

「こうなると、さぞ命が惜しいだろ、うん?」

といった感じですね。

 

それを薄れて行く意識の中で受け
下の句をひるまず続けました。

道灌
兼てなき身と 思い知らずば

ざっくり訳すと

「もともと死んでいる身だと思っていれば、全然惜しくありません」

死に直面しながらもなお
侍として常住死身の覚悟が出来ていたからこそ
冷静沈着な余裕を醸したのかもしれませんね。

 

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