崇徳院様が流刑となり
都に戻る望みは絶たれ、
皇位も剥奪され、
虚しい日々を過ごすこととなりました。
許しを請うため写経を京都に送ります。
二度と帰れない京に
せめて自分が書いたお経だけでも…
そういった願いを込めたのですが、
ほどなくして都から
「呪われてそうだから送ってくんな」
と返送されます。
崇徳院様は怒りのあまり、
庭に飛び出し
その場で舌先をかみ切ったといいます。
そしてその血で
「天下滅亡」
という呪いの言葉を書き残し、
「われ日本の大魔王となりて天皇家を呪い続ける」
と呪詛をかけ崩御されます。
呪詛には
「天皇を民に貶め民を天皇にする」
とあります。
天皇を権力の座から引きずり降ろし、
一般人に権力をくれてやるという意味です。
言葉通り
武士の世の中が始まります。
武士の社会
そんな訳で、
新渡戸稲造によると日本の封建制度は
源頼朝が鎌倉幕府を開いたときです。
崇徳院様が亡くなったのは1164年ですが、
1268年に元に国交を迫られる、
元寇のきっかけになる事件が。
元の国書をもって
高麗の使者が来るやつですね。
1364年に皇室を真っ二つに分断した南北朝の乱。
そして、1467年には武家同士が天下を獲る
戦国時代への突入のきっかけとなる応仁の乱。
着実に崇徳院様の呪詛が効いてますね。
武士は戦う事を専門としますが、
そんな彼らが世の中の中心に立って
好き放題してしまっては社会が成り立ちません。
実際、下剋上とか大変だしね。
そんな感じで武士の間でも
「ある程度ルール的なの必要じゃね?」
という事になってきました。
このようにして
武士の生活の中に
自発的に武士道たる崇高な道徳律が生まれました。
…でないと、
戦国期の大名領国制がとれませんし…
お手本となるルールがなかった訳でもない
武士の中で自発的に出来たルール…
…とは言っても
考え根源がない訳ではありません。
武士道は
仏教・神道・儒教
の影響を強く受けています。
仏教
仏教は運命を受入れ、
運命に従う心を与えたと言われています。
危険な状況においても
平静を保ち、
生に執着せず死を受け入れることでした。
仏教とはいっても、
ほぼほぼ禅宗ですね。
禅による心の鍛錬や
「無常観」という感覚など、
鎌倉時代から明治維新まで仏教を取り入れ、
武士道に大きく影響を与えました。
神道
武士達は鎌倉時代の分割相続を経て、
頭領が細分化し、
結果として固有の氏神を信仰するようになります。
しかし神道の最高位は天皇であるため、
せっかく実験を握ったのに尊王の動きが出られては困る。
室町幕府の勧めで禅を流行させ、
仏教ブームが再燃しました。
多くの武士にとって
神と仏は同時に信仰するものであったようで、
室町時代の武士道はその両方の影響を受けていると言えます。
仏神儒とはいいますが、
実際はあまり影響を与えていないものの様に
説く方もいますね。
仏教・儒教だけの影響なら
もう少し中華ナイズされてないと説明がつかないような…
あえて言うなら「日本らしさ」を与えた形というか…
儒教
新渡戸稲造によると、
武士道に最も大きな影響を与えたのは儒教だそうです。
特に朱子学の影響は色濃いですね。
儒教は古代中国に起こった孔子の思想に基づく教えです。
江戸時代の武士達は
幕府の政策で朱子学を学ばされていました。
朱子学というのは
「大義名分」を第一と考え、
既存の支配者であった将軍を敬わせるものでした。
武士達は儒教を学ぶ事で、
幕府への忠義に磨きをかけていたと言えます。
戦や切腹などの作法
死ぬべき時や生きるべき時
それらに関して
江戸時代に幕府によって定められたものが非常に多いです。
幕府は武士とは何たるかという部分に関して、
武士達に示しました。
江戸期に思想的隆盛を迎え、武士道にいたる
「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」
藤堂高虎の遺した家訓に表れているように、
自己を高く評価してくれる主君を探して浪人することも肯定いたり、
江戸時代初期に至るまでは
世間一般で言う「武士道」とはやや趣が違う部分が多々ありますね。
コメント