香川県は全国でも有数の獅子舞団体数を誇り、その数は「日本一件数が多い」と言われるうどん屋よりも多いです。
つまり、獅子舞と比べればうどんなんて大した規模ではないと言えます。
それでも「うどん県」として世界に発信しても誰も疑問には思わないレベルなのです。
実際、ここまで「香川=うどん」が浸透したのはタウン誌などで地道にうどんを啓蒙し続けた賜物と言えます。
そう考えれば、全国一での団体数をほこる獅子舞も、全国・全世界に向けてPRしていく必要がうどん以上にあると言えます。
今、行政・民間一丸となってPRしないと手遅れになる
日本一の団体数と言っても、これ、年々減少の一途をたどっています。
そもそも、大東亜戦争などで多くの獅子舞が途絶え、戦後有志の手によって再興されたものが現在の獅子舞となります。
当時はビデオなどもなく、覚えている人が「こうだった」という話を元に再現したり、他地区に習いに行ったり。
お手本となるものが残っていなかった事もあり、レジェンドクラスのご老体が祭などで酒が進んだ時に「だから、こうして普通に労なく教えてくれるのはありがたい事だ」と言っていたのが、当時どれだけ大変な事であったか、うかがい知る判断材料となります。
当時の娯楽はそれほど多くなく、祭で奉納される獅子舞も「年に一度の特別なもの」として親しみ楽しまれ、戦後の復興、目を見張る高度成長を支えたのであろうと思われます。
昨今はと言えば、深刻な過疎化や次世代の担い手の人口流出によって、深刻な担い手不足が叫ばれています。
そのあおりを受けて、獅子舞をやめてしまう団体もちらほら現れ始めています。
娯楽としての獅子舞が担っていた部分が薄れた事、祭また容易に物が手に入る・娯楽を楽しめる時代となった事による、祭自体に向けられていた特別視というものが無くなってきた事にも由来します。
現時点で、年に数団体の減少ですが、これは年々加速度が増す事が容易に想像でき、現行で獅子舞に携わる世代が引退する頃には「人手不足によって泣く泣く消滅」という事例が多くなる事は明白と言えます。
そのため、本来は女人禁制とも言われていたり、子供が触るなとも言われていた神楽としての獅子舞ですが、そういった枠組みを取っ払って広く人材を登用している団体も多く見受けられます。
それでも人手が賄えない団体も多く存在している事も事実です。
県の取り組みとしては、無形文化財として、5団体を認定しているとの事ですが、その他の1000団体近くは果たして文化的でもなければ保存する価値もない団体なのでしょうか?
いいえ、そんなはずがありません。
せっかく、県をPR出来るリソースである獅子舞を有しているのに、それを活用しないなんて勿体ないとしか…
そもそもうどんや瀬戸内芸術祭をプッシュしている事から、観光資源を確保したい狙いがある様に感じます。
ならば、そこに獅子舞を加える事は、県としても労なく即使えるアイテムが手に入る寸法ですね。
一度無くなったものを再現するのは至極困難が予測されますが、今保護しておけば、未来永劫まで使えるリソースとなるのです。
獅子舞は高知のよさこい、徳島の阿波踊りになりうる存在であると確信しています。
阿波踊りにで桟敷の真ん中で踊った私が言うのだから間違いありません。
前向きじゃない自治会
獅子舞は神楽であって、他所に行ってするものではないといった考えを持つ老人も少なからずいる事は事実です。
しかし、祭における獅子舞はエンターテインメントとしての役割があった事も、年配者の話からもうかがい知る事が出来ます。
ぶっちゃけ、祭事における必須項目って、神主が祝詞さえ上げればOKなんですよね。
じゃあ、何故獅子舞を奉納するか。
もちろん神に舞を奉納するという本来の意味もありますが、要は参拝客を楽しませるためなんですよね。
エンターテインメントなんですね。
かつて移動も困難で娯楽も少なかった時代は、獅子舞を披露する、その団体で獅子舞を習得するという行為は、それ自体が娯楽的な位置づけであったと言えます。
現在はそうではありませんね?
そのため、獅子舞の練習をしても、披露する人の集まらない祭、しかも年に数回しか披露する機会のないものに時間を割く事に価値を見出せない人というものは多くいます。
また、他所への移動中に事故や機材を破損した場合の責任の所在云々、「お前、ここ会社か?」という理論を盾に難色を示す老人もいます。
…が、どこの獅子舞団体でも過去に「市の要請で、地区外で獅子舞を遣った」「結婚式に呼ばれて市外で使った」「サンポートの落成記念に高松市街中心地まで行って使った」という既成事実があるところって多いと思います。
つまり、地区外の人からすれば、「要請に応じて団体を動かしてくれる実績」が残っているのです。
これを反故にして企業のコンプライアンス的なものを盾に取るのはいかがな話であろうか?
要は地域の発展や伝統の保護よりも、自治会内で重役をやっている間に面倒に巻き込まれなくないという個人の身の保全に終始しているだけに過ぎないのではないだろうか?
想像してみてください。
獅子舞もなくなり、誰も集まらなくなった祭では神輿の担ぎ手もいなくなります。
本殿から御旅所まで軽トラか何かに神輿を載せて、助手席に乗っていた神主が御旅所で祝詞をあげたら、再び軽トラで本殿に戻って大祭は終了。
形としては、これで五穀豊穣が祈願できるかも知れませんが、そんな味気ない祭になると、もはや地区内でくだらない軽トラの運転手を擦り付け合いに終始する事になります。
神がこれで喜ぶであろうか?
そもそも、移動中の事故や機材を破損なんて管轄でない地区外でなくとも起こる話です。
その際の保証云々が自治会で話し合われたり、取り決めされ文章化された痕跡も見受けられません。
そうすれば、難色を示す理由というのは、「自分が存命の間は獅子舞が見れるから自身の死後に獅子舞が失われようが知った事ではない」という事になります。
地区外の要請に応える、イベントに参加する事は披露機会の増加には多くのメリットがあります。
地区を離れた担い手の参加機会の増加や「地区を離れたから、参加するのも…」と尻込みしている人が参加しやすい状況を生みます。
現時点で獅子舞を行う団体を維持する上での命題は、移動中の事故でも機材の破損でもなく、担い手の確保に他なりません。
そもそも過疎化等での担い手の減少という問題は、我々現行で獅子舞を担っている人間の責任ではありませんよね?
老人方のクローズドポリシーが生んだ結果ですよね?
そのうえで、獅子舞団体を構成して運営させている以上は、担い手確保や披露機会を求める手立ては何ら悪ではないと考えます。
むしろその流れを遮る権利を認めるわけにいきません。
嫌なら担い手を確保できる対案を出して頂ければ良いだけの話です。
否定だけなら小学生でも出来る話ですから。
獅子舞に参加しないすべての担い手に
新道の習わしに沿った神楽をマスターできるチャンスです。
本来、日本人は過去との対話に重きを置いた文化を形成してきました。
要は伝統を重視していたと。
戦後、GHQが日本統治のために持ち込んだものにレクリエーションなどがあります。
これは日本文化を破壊して再構築を困難にして再び戦争を起こさせない狙いがあると言われていますが、陰謀論大好きな方風に言えば、米国の製品を日本で売るための政策ですね。
「信じるか信じないかはあなた次第(笑」
実際に、獅子舞を古臭いとかそう感じる方も居るかもしれません。
そして米国からやってきた文化に心酔しているかもしれません。
ただね、あなたは日本人です。
自分が持っている本来のスピリットに気づくべきです。
「年取って、相撲とか面白くなった」「寺社仏閣に興味がわいた」なんて言っている年配の方というのは意外なほど多いのが現状です。
確かに流行を追いかける事はいい事かもしれません。
しかしそれは後に何が残るだろう?
あなたの存在は、ただ消費の為にある訳じゃないですよね?
文化を継承する事は、我と我らの子孫へ大きな遺産を残す事に他なりません。
それは消費されず未来永劫残るのです。
ぶっちゃけ、撮り獅子マニアで「伝説の後獅子」の二代目となった私ですが、20代の頃はIT業界で最先端のテクノロジを追い、消費文化を楽しんでいて獅子舞に魅力を多く感じませんでした。
そんなんで何が残せただろう…
人は自分の存在理由を求め、いろいろな取り組みをします。
それは何の為か?
ただ消費システムの中で消費して消え入るためではないですよね?
要は究極目標として「何かを残すため」であると言えます。
それは子孫であったり、業績であったり、知識であったり…
日本人であるスピリットをまだ感じていない、半分も引き出せていない未完成な存在であるから、獅子舞に魅力を感じないと言えます。
逆に言えば、それらは獅子舞を通して手に入れる事が容易であるとも言えます。
人々のつながりが希薄となった時代と言われます。
地域コミュニティの崩壊は、日本人本来が持つ強さを失わせる結果となる事は、伝統や歴史を見れば理解できるはずです。
病んだ社会がその結果の一つであるとも言えます。
別に歴史を探求しなさいとは言いませんよ。
400年もすれば、栗林公園の基礎を佐藤家が作った事すら忘れられるレベルですし。
ただ継承しろ。
我とあなたの子孫のために。
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