静御前、モンスト以外に香川にも関係がある

香川県
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さて、静御前について話する訳ですが、結局何をした人?
モンストに登場するくらいの認識しかないと思います。

 

静御前とは、白拍子であった磯野禅の娘です。

 

白拍子とは古く遡ると巫女による巫女舞を原点とします。
神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させ、場合によっては一時的な異性への「変身」があると信じられていました。

 

日本武尊が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が三韓征伐の際に男装を行ったという説話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴でですね。

 

このうち、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、次第に芸能を主としていく遊女へと転化していき、そのうちに遊女が巫以来の伝統の影響を受けて男装し、男舞に長けた者を一般に白拍子とも言うようになった。

 

ある意味、阿波踊りにおける男踊りを舞う女性も白拍子の一種ですね(笑

 

主に今様や朗詠を歌いながら舞ったとされます。

 

…解り辛い?

 

いわば、流行のヒット曲を歌い踊る芸能人といった所ですかね。

 

静御前は二世タレント

先ほども言ったように、静御前は磯禅師の娘であり、母と同じ白拍子の道を進みます。
源義経に見初められる頃には、有名な白拍子となっていたようです。

 

二世タレントの元祖とも言えます(笑

 

しかし、世阿弥など芸事で歴史に名を残した方たちとは、やや毛色が違う感がありますよね?
基本的に芸能分野の歴史上の人物は代表作と共に語られます。
どちらかというと、源義経や北条政子との歴史的な絡みで静御前は語られる事の方が多いからです。

 

では、何故歴史に名を残せたのでしょう?

 

静御前のあしどり

日照りが続いたので、後白河法皇は神泉苑の池で100人の僧に読経させたが効験がなかった。

 

そこで100人の容顔美麗な白拍子に舞わせ雨を祈らせる事にしました。

 

99人まで舞っても、空には何の変化もなかったが、静が舞うとたちまち黒雲で空が覆われ、3日間雨が降り続きました。
法皇は

さっと
法皇役:さっと

かの者は神の子か!

と感嘆し、「日本一」の宣旨を賜う事となります。
その後、住吉での雨乞いの際、静を見初めた義経が召して妾にしたという。

 

兄である源頼朝と対立した義経が九州へ向かう途中に嵐にあって静御前達は吉野に戻ります。
そこから京へ戻る途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた静御前は、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡されます。
磯禅師と共に鎌倉に送られ、義経の居場所を色々問いただされます。

 

頼朝・政子が鶴岡八幡宮に参拝の際に、舞を披露する様に命じますが、渋ります。
政子の必死の説得で、鶴岡八幡宮に奉納するという形式で舞う事になります。

 

…が、歌の内容が義経を慕う歌だったため、頼朝当激怒。

 

しかし政子のハートはガッチリ掴んだため、

いそのさん
北条政子役:いそのさん

頼朝!

私が静の立場だったら私もそう歌うわ!

んな事も理解できないで天下人とか舐めてるの?ハゲてろ!

と説得して一命は取り留める。

 

この時、静は義経の子を妊娠していました。
頼朝は女子なら助けるが、男子なら殺すと命じるます。
しかし静は滞在していた鎌倉の安達清常で男子を産んだ…

 

清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。
磯禅師が赤子を取り上げて清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められます。

 

静と磯禅師は義経に繋がる情報を持ち合わせていないとされ、京に帰されます。
憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたといいます。

 

その後の磯野禅の故郷である香川へと帰ります。

 

静御前は義経を探さなかった

静御前は京に返された後、義経を追って…

 

というのが日本の多くに伝わる伝承ですが、実際はそうじゃない。
子を海に沈められて京都に返された後に「じゃあ、義経の所に行こう」なんてなりますか?
香川に戻るというコースが正解となります。

 

義経の子を守れなかった静御前は、いったいどのツラさげて会いに行くって言うんだ!

 

そこで、磯禅師の生まれ故郷である香川県東かがわ市に帰る事となります。
静御前のネームバリューがデカすぎて、京都では暮らし辛かったからです。

 

また、はぐれてどこに行ったのかもわからない義経を無駄に歩き回って探すよりも、京や鎌倉から海を挟んで離れた香川で義経を待った方が安全ですしね。

 

磯禅師は東かがわ市の生家付近に、自身の孫のために祠(ほこら)を作ります。
磯禅師が嫌がる静御前から赤子を引き離してしまった張本人であるからです。
せめてもの罪滅ぼしに祠を作る事にしたのです。

 

その後、さぬき市の長尾寺周辺に移り住み、仏門に入ります。

 

静御前、架空の人物説

当時の貴族の日記に静御前の名が全く登場しない部分を指摘して、架空の人物とする説もあります。
実際、北条氏が編纂した吾妻鏡のみであり、静の舞の場面は源氏政権の否定、北条政子礼賛という北条氏の立場に拠ったものである事から、北条氏の政治的立場による曲筆との見方が強いです。

 

要は当時名を馳せていた磯禅師の娘という設定で、「政子っていいヤツでしょ?」を演出するための登場人物。
源氏のスキャンダラスというか、パッとしない部分を書いて、政権を奪取した北条家を持ち上げるために。

 

以降の作品はこの吾妻鏡を参照したため、あたかも実在の人物の様に扱われたという事です。

 

磯禅師は香川県出身

磯禅師は実在した人物です。

 

東かがわ市小磯付近の長町家の出身ですね。
もちろん「磯禅師」というものは芸名ですからね。

 

香川に戻った際に建てた祠も実在し、現在でも長町家によって管理されています。
また磯禅師の墓は、さぬき市長尾にもあります。

 

じゃあ、その長町家って何?
実際、静御前以外にも磯禅師の子孫は居て、長町姓を名乗っています。

 

私の母方です(笑

 

義経が屋島攻略の際に、東かがわ市から香川に入った事は有名ですね。
大阪峠を通って香川に入り、水主神社や馬篠を経て屋島を目指します。

 

その際に、サポートした一族の一つに長町家があります。

 

その流れから、長町家出身の磯禅師の娘を設定し、義経との物語を創作したと言われています。
また、古い世代の長町家の男には「義」の字が名前に付く方も多いのですが、これが何を意味するものかは言うまでもありませんね?

 

幼いころ、学校でもまだ習っていない静御前の話を母親などから普通にされたりした訳ですが、歴史的人物の家系だとありふれた光景なんじゃないでしょうか?

 

 

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