他人と完全にわかりあう方法なんてない

マインド
この記事は約6分で読めます。

人々は理解し、わかりあうため神は
髪の色・肌の色・話す言葉
性別・生まれた地域を分けた。

 

…というのがイスラムでの
神が人種や性別を分けた理由だそうです。

 

わかりあう為の方法が
ざっくり言うと
イスラム教だそうです。

 

さて、人は相手を理解して
より良好な人間関係を構築しようと努力します。

 

そのため
どの様な環境においても
人間関係で思い悩んだりしてしまいます。

 

苦しい思いを
時にはすることだってあります。

 

何故でしょう?

 

あなた
そりゃ、人の事を深く知ろうとしなければ理解できないからでしょ?

相手の事をすべて知ろうとしなければ

「相手を理解」

することは出来ないかもしれません。

 

しかし人間は
自分自身の事ですら
見えない事や知らない事があるんですよ?

 

あなた
さすがに自分の事は全部知っているでしょう(笑

そう思うのは
本当は知らないという事を伏せるため
安心するためですよね。

 

内面から見た自分と
他人から見た自分とでは
印象が違う場合だってあります。

 

それら全部を把握して
はじめて自分自身を知っていると
言えるかもしれませんが
それでも全部ではありませんね。

 

自分自身でも把握しきれない人間が
他人を完全に理解する事は可能でしょうか?

 

「人はわかりあえる」は思い違い

人はわかりあえるというのは
幻想であり綺麗ごとであり

わかりあえるはずがない

んですよね。

 

他人とトラブルの発端って
大部分はこの思い違いが原因といっても
過言ではないでしょうか。

 

人類が誕生して長い年月が流れましたが
それでも人類は人間関係をなんとかするために
沢山の情報を欲してきました。

 

それは本屋に人間関係にかんする本が
たくさん並んでいる事からも解ると思います。

 

長い時間が解決するものでもなければ
技術の進歩が解決するものでもなかった。

 

逆にそれは

「わかりあえるはずがない」

事が真である証明ともいえます。

 

前提条件が間違っているから
人は人間関係に悩むのです。

 

数学風に言えば
ゼロで割り算しなければならない様な
前提条件の元に問題を強引に解かされる感じですね。

 

ゼロデバイドエラーで
本来ならそこで計算ストップなのに
その先を計算させようというのは無茶な話ですよね?

 

そういう数学問題に出くわした時は

「解なし」

となります。

 

わかりあうことを目指すから悩む

「人はわかりえる」という前提条件の元に
人と付き合うことは苦しみを生んでいきます。

 

例えば会社…

 

ブラック企業につとめ
毎日上司や同僚による
パワハラ、セクハラ、モラハラ。

 

「話をまとめて書面で提出せよ」

という指示に従い書面を提出したら

「こんな書類を提出する事はハラスメントだ!!」

 

「〇〇課の■■さんが問題行動を行っていました」

という報告及び問題提起に対して

「お前は他者に慕われる様な
インフルエンサーではないので黙ってろ」

 

無視・物品の盗難等の解決を依頼しても

「お前の人間性の問題だ!」

 

人間扱いされない日々。

 

睡眠時間は少なく体も心も疲労困憊。

 

なぜあの人は自分の苦しみをわからないのだろう…
話が通じないんだろう…

 

前提条件として

「わかりあえる」

と定義した場合
ブラック企業に勤めるとこの様に苦しむ事になります。

 

絶対に達成出来ない事を
目標として目指しているから苦しむ
のです。

 

「わかりあえない」

という真実を知っている人は

さっと
なにこの企業…
完全ブラックじゃん、時間の無駄だ!
とっとと辞めて他に行くか。

といった感じで
自分を痛めつけようとする人とは
適切な距離をとることができるようになります。

 

わかり合えないことを確認するもの

人とコミュニケーションをとる時
わかり合おうとすることは大切です。

 

…が、

「わかりあうこと」

を目標にするとうまくいきません。

 

あなた
え?言ってる事が矛盾しているような…

 

コミュニケーションの目的は
わかり合うことじゃないんです。

 

正確にいうと

「相手を理解しきれない部分が存在することがわかる」

ということです。

 

人間関係というものは
どんなに親密になっても
本当はその人の人間性の一部を

「わかった気になってる」

だけです。

 

つきつめて考えると
現実問題としてわかってない部分がほとんどです。

 

夫婦であれ親友でれ
生まれた時から成長を見守ってきた子供であれ
わからない部分があって普通なんです。

 

わからないから
相手に敬意を表した態度で接する。

 

わからないから
相手にわかる言葉を話そうとする。

 

わからないから
相手にわかるように伝え方を工夫をする。

 

自分と相手が違う人間である事を意識するんです。

 

その差異を認め接する必要があるから
マナーや道徳の発達が必須だった訳ですね。

 

人との差異を認めないから争いがおこる

相手とわかりあえるはずという前提条件の人は

「自分にとって理解できる人」

を善とし

「自分に理解できない人」

を悪と判断します。

 

自分の理解を超える人と出会った時に
拒絶反応を示す
んですね。

 

「人とわかりあえる」

という幻想に生きる人こそ
不毛な相互理解の泥沼にもがき
可能性を逆に少なくするわけです。

 

「人はわかりあえない」

という前提条件の人は
わからないなりに
わからないからこそ調和のとれる距離感をとります。

 

家族だから親友だからといって
すべてわかりあえるものではありません

 

これを家族だからとか
友人だからといって

「よくわかったつもり」

になって自分の持物のように
付き合おうとするのはマナーや道徳に反します。

 

親しき仲にも礼儀ありといいます。

 

わかり合えないという前提の基に
自立したものどうしが認め合う。

 

人々は違いを理解し、違いをわかりあうため神は
髪の色・肌の色・話す言葉
性別・生まれた地域を分けた。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました