いきなりディープな話題ですね…
よく「自殺は悪である」という事が言われていますね。
それは残されたものに
深い闇を落としたり
全てのチャンスや責任を放棄するからとか
宗教的にダメって見解もありますね。
そうこう言っても
誰しも一度は考えたりするんじゃないでしょうか?
一度は
高い所から飛び降りたら気持ちよくあの世に行けそう…
なんて感じる時もあると思います。
冗談でも言っちゃダメって話もありますが
何が善で何が悪であるかの概念にもよりますよね?
昔は武士としての死に方として
切腹がありましたし
お国の為に死ぬことは美徳とされていました。
要は根底に据える価値観次第で
善にも悪にでもなる概念です。
学問の分野には死生学という
1970年代に入って誕生した新たな分野があります。
そのためご存知じゃない方も多くいらっしゃるんじゃないかと…
死生学って何よ?
死生学は
つうか非日常的すぎて遠い話だし…
なんか悲惨な感じがするし…
といった風に
やたら死をマイナスや恐怖と定義づけている現代社会に対して
死に対する心構えという観点から
改めて生の価値を見出そうとする学問です。
そもそも人の死亡率は100%ですね。
生まれたからには必死です。
自分の将来にある死を必然として見据えることにより
現在の自分の生において何が重要であるかを考える
必要がありますよっといった内容です。
死生学は
尊厳死問題や医療告知、緩和医療などの論議の中
必然的に生まれた学問なので
教科としては知らなくても
死に関わる色々な分野で広く使われています。
ターミナルケアとか歴史研究の分野でも応用されていますね。
ある意味このブログのための学問です。
そして今回のお話である
自殺予防などの分野でも応用されています。
簡単だけど奥が深い
概念自体は文庫本一冊でまとめられる学問ですが
研究しだすと無尽蔵にどこまでも研究し続ける事が出来ます。
しかも100点満点の答えが
なかなか導き出せない学問でもあります。
死生学が対象とするのは
人間の消滅
つまりは死である事は名前からもわかりますね。
死生学の開拓者の一人であるアリエスによれば
という風に
人類は長い歴史の流れの中で
「死に対する態度=死生観」
を養ってきました。
ネアンデルタール人にまでさかのぼるそうです。
死生学はこのような死生観を
哲学・医学・心理学・民俗学・文化人類学・宗教・芸術・音楽
といった多くの分野の研究を通して
人間知性に関するあらゆる側面からアプローチを行う事で
死への準備教育を目的とする極めて学際的な学問となっています。
100点満点の答えを導き出すのに
途方もない時間がかかりそうでしょう?
欧州などでは
小学校でも教える学問ですが
日本では現在でも導入されていません。
…といった話を最初に私が聞いたのが
20年前になります。
何せ死生学が研究対象としているものに
自殺や他殺の予防教育
死に付随する悲観に対する教育
といった極めて重要な事柄が含まれているからです。
自殺がなぜ悪い?
先に言っておかないといけない事がある。
言うまでもありませんが
「自殺を禁じない」
ということは
「自殺を勧める」
こととは全く異なった性質です。
この区別ができない方は
誤解を生じる恐れがあります。
ここから先は読まないことをお勧めいたします。
キリスト教では
自殺は煉獄に落ちる大きな罪とされています。
自分で自分を殺すことは
宗教上「殺人」と定義されていますね。
キリスト教的には「悪」だと位置づけされているのです。
仏教ではどうでしょう?
仏教では自殺を禁じている
釈迦は自殺を禁じたという説が半ば定説となっています。
根拠としては
仏教の重要な戒律である不殺生戒が度々挙げられます。
自殺もまた
自分自身による殺生だと見れば
釈迦の定めた戒律に背く事となっています。
本当にそうかな?
結論から言えば仏教では自殺を
「ダメ絶対」
「無条件に禁止」
とはしていません。
逆に釈迦は状況次第で自殺を黙認していますし
自殺が罪とはならないと述べた記録もあります。
雑阿含経などにも実際に自殺に関する記述がありますし
実際に釈迦の弟子は何人か自死しています。
不殺生戒の根拠は釈迦の
すべての者は死をおそれる。
己が身にひきくらべて
殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。
…何の事やら…
簡単に言うと、
「みんな暴力におびて、死をおそれてる。だから他人を殺したらダメ」
「誰にとっても自分は愛おしい。だから他人を害しちゃダメ」
といった感じですね。
要は「自分が嫌な事を他人にするな」という内容です。
自死は自分が望むことを自身で行うだけですから
不殺生戒の根拠の根拠からズレてきます。
自死に不殺生戒は無関係と言えます。
不殺生戒に無関係だからこそ
釈迦はチュンダやサーリープッタの自死
伝承の話にはなりますが
自身の延命処置の放棄を認めえたのです。
自身の自由意志に基づく行為は
それが何であれ
「自己への暴力」
とはなり得ません。
自身の意志に反するからこそ暴力となります。
自分で自分に借金することは出来ませんよね?
自分自身への行為は善悪と無関係です。
他者の意志に反して殺すから殺生という罪になるのであって
自分自身への行為は罪にも善行にもなりません。
善悪や罪業・功徳は
あくまで他者との関係で生じる概念です。
どの宗派の経典を調べても
自死=地獄と説かれたものを見たことがありません。
僧侶ではないので
そういう記述がある経典に出会ってないだけかも知れませんが…
ただ、自死について条件があったような気もします。
- 悟りを開いた者が、その智慧をもって自死以外の選択がないと判断した時。
- 病気やケガで耐えがたい苦痛があり、回復の可能性がない時。
であったと思います。
もちろん
「否定していない」
ことと
「勧める」
ことは全く意味が違いますよ。
仏教で自死を勧めることはありません。
自殺はダメって縛り
「生きてるだけで丸儲け」
「生きてりゃなんとかなる」
根拠は?
自分には関係が無い事を良い事に
身勝手な「反自死至上主義」の為に
当人は自殺しか選択肢がなくなる事はご存じだろうか?
病気やケガで耐えがたい苦痛がある
人としての尊厳を蹂躙されている
身に覚えのない罪から解放されない
こんな場合
ホントの意味で死ぬしか解放される方法がありません。
そんな方に
「生きてりゃなんとかなる」
じゃあ、具体的にどういう風に何とかなるのでしょうか?
病気やケガの耐えがたい苦痛から解放される
エリクサーが開発されるのでしょうか?
人としての尊厳を蹂躙されている現状を
あなたが打破してくれるのでしょうか?
身に覚えのない罪からが
冤罪である事を明日にでも証明してくれるのでしょうか?
時間がたてば
失ったものが回復するのでしょうか?
自死はその人が人間関係や健康面などの悩みを持ち、
それが深まり、精神状態が悪化し、死に至るという
フラグ立ちまくりの場合が多いと思います。
しかしオランダの場合は
「死にたい」
と思った段階で医師の元を訪れるケースが多く
その結果問題が解決していく可能性が
高くなるというシステムを敷いています。
オランダでは死をタブー視せず
向き合う事によって
かえって生きる力に結びついているのではないかとも言えます。
「死にたい」って人に
無責任な言葉をかけるより
随分と建設的ですね。
もちろんオランダと日本の医療制度に
大きな違いがあるから成立している訳ですけど
それでも法案が通るまで30年近くかかっています。
無責任な言葉って
場合によっては追い打ちをかけるだけという
事実を知っておかなければなりません。
じゃあ何のためにこの記事書いたの?
正直、自殺ダメ絶対というスタンツですが
選択肢のはく奪によって
混乱してしまっている人も居ると思うんですよね。
また無駄に縛られる事で
無駄に変な励ましをされる事で
余計にみじめになる事だってあると思うんですよね。
身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり
死ぬって事は
毀傷(いため傷つけること。傷つけこわすこと)に他なりません。
また釈迦の「殺さしめてはならぬ」は
「 他の人々が殺害するのを容認してはならぬ」
という意味です。
無責任に言葉をかけて
死に至らしめてしまうという結果。
これは誰しも可能性があると思うんですよね。
無責任に接するくらいなら
本気で止めにはいってくださいね。
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